YEMEN―イエメンの旅 6


まるくん駅舎

まるくん駅舎



―― 熱風が吹きすさぶ漁村から 洪水の高原まで ――その1




 マーリブで見た三日月はサナアに戻ると半月になり、ホディダではほぼ満月になっていた。
プジョーに乗った私たち3人は思い思いの「月にまつわる日本の唄」を歌った。
タクシーのドライバーは、また嬉しそうに笑う。
笑いっぱなしだったドライバーと別れ、ホテルで念入りに蚊の予防対策を講じた。
防虫スプレーを全身にくまなくかけ、部屋中にフマキラーを吹きかけ、海外用転換プラグに接続した電気蚊取り線香、そして火でたく蚊取り線香。
ここまで徹底するのには、もちろん訳がある。
ティハマ平原はハドラマウトに比すことのないマラリア天国なのである。
 マラリアは原虫を媒介とするハダラマ蚊に刺されることにより発症する。
三日熱、四日熱、卵熱、熱帯熱、さまざまな病型があり、潜伏期間も10日あまりから1ケ月におよびさまざまだ。
嘔吐、下痢、悪心、腹痛、四肢通などの症状をともなう高熱に悩まされる。
聞いただけでも悶絶しそうではないか。
その昔、ティハマ平原でマラリアにかかることは「死」を意味していた―――。
 18世紀、西欧人にとっていまだに神秘の国であった南アラビアの探検を試みた『幸福のアラビア紅海記(トールキン・ハンセン著/伊吹寛子訳・六興出版)』の登場人物たちも、著者ハンセンの叔父ニーブル大尉が唯一の生還者で、皆帰らぬ人となったのである。
現代では死にこそしないものの、やはり恐ろしい感染症であることに変わりはない。
そのほか、このティハマ地方で怖いのは、黄熱病、フィラリア症、睡眠病など寄生虫から感染するものや、砂ダニ症、狂犬病など皮膚から感染するもの、水や飲食により感染するコレラ、赤痢、腸チフスなど枚挙にいとまがない。
サナアで軽度に患った高山病など、かわいいものである。
感染症をこうして列挙しただけでも、高温多湿の気候やひとびとの文化のみならず、ここはもうアフリカなのだ。
紅海はティハマ平原とアフリカ大陸に流れる大きな川ぐらいに思っておいたほうがよさそうだ。
 次の日、早朝ホディダ近郊の漁港(フィッシュ・マーケット)を訪れた。
砂塵が舞うなか、セリ落とされた大きな魚エイやフカが次々と水揚げされている。
市場のなかを覗いてみた。
セリの最中で、仲買人たちでぎっしり埋まった場内も、日本のセリと違いどこかのんびりしている感じがした。
市場の外ではセリに落とされた魚が売られている。
「イカね。マグロね。いらんかね?(笑)」
「ナアムナアム(笑)、アッディッシュー(はいはい、いくら?)」
日本語にびっくりして返答したが、私のアラビア語は通じなかったようだ。
アラビア語は「フスハー」というコーランから発達していった文語的な言葉と「アーンミーヤ」という口語体に分かれる。
そのうちアーンミーヤはサウジアラビアなど湾岸諸国方言、エジプト方言、シリア方言、モロッコ方言などに分かれ、場合によっては表現が全く異なり、お互いの方言では外国語と同じで全く通じないときがあるそうだ。
しかも、イエメンではコーラン以前の古代アラビア語などの痕跡もあり、文章自体も異なるらしい。
そして、高原、砂漠、山岳、紅海、インド洋と変化にとんだ風土のイエメンでは国内でも方言がある。
ちなみに私がアラビア辞書を引用して言ったーアッディッシュー」はシリア方言である。
エジプト方言だとエジプトで散々使った(笑)「ビーカム」。
そしてフスハーだと「マー・ササマヌーハ」になる。
「いくら?」が全く異なるのだ。
 ホディダは紅海が古代より海のシルクロードとして栄えたのに対し、町の歴史は比較的新しい。
16世紀、オスマントルコの支配時代から港町として栄えた。
旧北イエメン時代には国内の全輸出量の4分の3を占める「220万トンあまり(イエメン1985年国勢調査より)」あり、おもな輸出品はコーヒー、缶詰、ビスケット、綿製品、皮革など。
輸入品は機械、繊維、自動車など。最も輸入量の多い相手国は日本で、ホディダは貿易に携わる日本人が頻繁に訪れたわけで、さきほどの「イランカネ」も納得する。
 ホディダを離れる。
朝日が昇るにつれて気温は上昇し、湿気を含んだ熱風に悩まされながら、ジープは海岸線からすぐ迫りくる砂漠のなかを南下した。

―― 熱風が吹きすさぶ漁村から 洪水の高原まで ――その2



イエメン少女



代数学発祥の地とされる中世のイスラム学問都市ザビードに向かう。
途中にあるイエメン最大のマーケットが開かれるベイト・アル・ファキーフ村は残念ながら今日が土曜日であったため通過した。市は毎週金曜日に開かれる。
 ザビードは819年、アッバース朝に反乱を起こしたティハマ地方の鎮圧者イブン・ジヤードにより建設された町だ。
アッバース朝がスンニー派(預言者ムハンマドの慣行などに従う一派。イスラム教の多数を占める)であるのに対し、シーア派(預言者ムハンマドの娘婿アリーを正統な後継者とする一派。イランやイラク南部)が優勢なティハマ平原にあって、スンニー派を広める戦略的意図をもって建設された町だ。
南アラビアを征したジヤードはアッバース朝からやがて独立し、ジヤード朝を興す。
「イブン・ジヤードはイスラムの大学にあたるマドラサの振興を図り、ザビードは学問の都市として200年間栄えました」
ティハマ砂漠の谷間、緑多いザビードの古めかしい町並みを散策しながらナジプサはいつになく元気がいい。
彼は仕事の都合で今はサナアに住んでいるが、ザビード出身なのだ。
ナジプサの容姿はアラブというよりアフリカ人だ。ティハマはアフリカの一部のようなものだと再認識する。
「ジヤードの支配が終わってもザビードの町は文教都市として活況でした。エジプトのアイユーブ朝支配下時代には衰退しましたが、1229年ラスール朝の都になったことで、モスク、マドラサなどが200以上も建ち、再び繁栄しました」
 現在のザビードは迷路のような狭い路地に全体が白く塗られた古めかしい壁や家が並ぶ静かな町だ。
この町自体が大学であった面影はアル・アシェル・モスクなどである。この町には規模に比してモスクが多く86もある。
幾何学模様のレリーフが美しいモスク前を、ホブス(パン)のお盆を頭に乗せて通りがかる少女に目が止まる。私はザビードに着いく前からソワソワしている。
ナジプサのふるさとで彼がいつになく力説する学問都市よりも、いつもと変わらず(笑)私が関心を引くのは美しい少女だ(笑)。
旅行前に読んだ本から引用しよう―――。
「――遂にザビードに着いた。古都サナーまで訳120マイルを距て、ヤマン第二の大都会である。バナナその他果物の産が多く、市民は愛想よく、容姿は優美、ことに婦女子は目ざめるばかりに美しい。
市街はアル・フサイブという谷間にある。かつて、預言者(マホメッド)がムアードという者に向かい、
「おお、ムアードよ。フサイブの谷に着いたなら、歩はやめておけ」といったという伝承があるが、それは美しい女たちに迷わぬようとの心やりからであった。ただ申し分なく美しいだけでなく、心ねの優しい女たちである。異国の人々を重んじ、わがふるさとの女たちのごとく、よそものとの結婚をいやがるようなことはない。異国の人々を重んじ、その人が再び旅に出ようとすると、妻は見送って、ご機嫌よろしゅうという。子供が生まれると、それを大切に育てながら、
夫の帰りを待っている。そして夫の留守中、日々の暮らしの費用から、衣料費その他何一つ要求はしない―――『三大陸周遊記(世界探検全集2)』イブン・バトゥータ/前嶋信次訳・河出出版」

14世紀に足掛け29年間!世界を旅した私の唯一無二の師匠、イブン・バトゥータ師のザビードを紹介した一節である。
――ただ申し分なく美しいだけでなく、心ねの優しい女たちである。異国の人々を重んじ、わがふるさとの女たちのごとく、よそものとの結婚をいやがるようなことはない。異国の人々を重んじ、その人が再び旅に出ようとすると、妻は見送って、ご機嫌よろしゅうという。子供が生まれると、それを大切に育てながら、夫の帰りを待っている。そして夫の留守中、日々の暮らしの費用から、衣料費その他何一つ要求はしない―――
私はこの一節を諳んじている。家訓にしている(笑)。
妻は一笑に付すのみだが、私は信じてここまで来た(笑)。
おお、たしかに美しい娘さんはいた。
―愛想よく、容姿は優美、ことに婦女子は目ざめるばかりに美しい―娘さんはいたのである。
年はどうみても7、8才だが・・・・・。
でも、町を歩けば妙齢の美しいひとがたくさんたくさんいるはずだ!
ちょっとお嬢さん、「スーラね」(笑)。
「なにか質問ありますか?」ナジプサ。
「はい!ここで町の散策のため少し自由行動にしませんか」私。
「はーい、ヤッラ(はい、行きましょうー)ね」
「・・・・・・・・・・・・・・」
そんな、ナジプサ・・・・・。
―フサイブの谷に着いたなら、歩は「ゆっくりいけ」(笑)―ではないか。

トラベール

おお、たしかに美しい娘さんはいた。
―愛想よく、容姿は優美、ことに婦女子は目ざめるばかりに美しい―娘さんはいたのである。
年はどうみても7、8才だが・・・・・。
でも、町を歩けば妙齢の美しいひとがたくさんたくさんいるはずだ!
ちょっとお嬢さん、「スーラね」(笑)。
「なにか質問ありますか?」ナジプサ。
「はい!ここで町の散策のため少し自由行動にしませんか」私。
「はーい、ヤッラ(はい、行きましょうー)ね」
「・・・・・・・・・・・・・・」
そんな、ナジプサ・・・・・。
―フサイブの谷に着いたなら、歩は「ゆっくりいけ」(笑)―ではないか。


―― 熱風が吹きすさぶ漁村から 洪水の高原まで ――その3


moca marukun



漆喰白壁をバックに微笑む少女を写真で撮っただけで、―愛想よく、容姿は優美、ことに婦女子は目ざめるばかりに美しい―ザビードを跡にしなければならないのであった。
 気温はどんどん上昇し、拭けども拭けども額から汗が滴り落ちてきた。
ザビードはまだ比較的内陸部であったが、再び海岸に近づいてきた。
砂塵まますますひどくなる。砂の嵐だ。
熱風と湿度で気分が悪くなる。過度の睡眠不足も影響しているのだろう。
 風が激しい寂れた村の路地の隙間からエメラルドグリーンの海が見えてきた。
ここが、17世紀コーヒーの積み出し港で賑わっていたモカだ。
モカコーヒーはこの港町にちなんで名づけられた。
それにしても、この寂れようはなんだろう。ザビードの比ではない。
浜辺に立つと、湾には石造りの桟橋と波に揺らぐ数隻の漁船が浮かんでいるだけだ。
村の家も廃墟になった家が多く、崩れかけている。
熱風吹きすさぶ村にはひとの気配はなく、かわりに野犬が砂が舞う浜辺で戯れていた。
おバカな私も「彼ら」と一緒に海水浴を楽しんだ。
 再び、窓を閉じれば蒸し風呂、窓を開ければ熱風と砂塵が襲うという最悪の二者選択を迫られるなか、
砂漠地帯を行く。
熱帯性の気候らしく、マンゴー、パパイヤ畑がときおり沿線にあり、心ばかりの清涼感。
しかし、砂漠を行く途中で清涼感とは正反対の気分でいた。また「胃腸から落ちてくる」ものだ。
「こ、ここらで休憩をしませんか・・・・・」
道路脇に止めて、ひとりでジープに乗り込み、いざ砂漠へ・・・のはずが・・・・・・・。
「また、抜け駆けしよってからにー」
全車がオフロードだ。
「ちゃうちゃう、私のカラダがオフロード!ついてくるなー」
由々しきことであるが、私は旅の前半、「国王」、「シャー」、「王様」などのネーミングで仲間内で呼ばれていた。「五月人形」と仰る方もいて、なかなかうまいことをいう、と感心した(笑)。
それが、天空の城ハジャラあたりから「若殿」に統一されたようだ。
しかし、それは当方の聞き間違いで、どうやら「バカ殿」だったことを帰りのムンバイで知る・・・。
モロッコで命名された「ハッサン国王の弟」から「フンコロガシ」に変わったように―――。
 モカを発ち30分。
高度を上げはじめ、高原になる。体感温度がどんどん下がっていく。
再び中央山脈を通過し、地獄のティハマ平原とお別れだ。
道路はサナア―ホディダ間よりずっとましでゆるやかな登り道を行く。
 やがて、ティハマ平原で体力を消耗しきったのか、はじめて移動中眠りにつき、起きたときにはタイズの町だった。
町の南部、3,150メートルあるサビル山を筆頭に、四方が山に囲まれた盆地の町だ。
ティハマ平原の熱風が嘘のように山からやさしい涼風が届いていた。
タイズは人口20万人、サナアにつづいて第2の都市だ。
1948年から62年までは首都であった。1962年といえば、イエメン最期のイマーム(王)アハマドが死去し、革命が起こった年だ。
丘にある元イマームの宮殿がそのままの形を残し博物館になっている。
そこでなんとも滑稽でおぞましいものを見るのだが―――。
 タイズはサナアと旧南イエメンの首都アデンを結ぶルートの中間地点にあたり、近年急速に発展し、サナア以上に近代的ビルが建ち並ぶ。
もちろん、古きよき時代の面影を残す旧市街もある。
 旧市街近くにあるホテルの部屋で疲れと荷を解き、塩と砂まみれの体をシャワーで洗い流す。
そして、ナイトキャップ用の杯を傾けた。
ペットボトルに詰め替えられた透明な液体は、ジンだ。
今日、モカからタイズへ向かう砂漠のあるところで購入した。
路上の密売品である。
スエズ運河開通により、古来以上に船舶の多く行き交う紅海だが、沿岸のどこかからこっそり荷揚げされるのだろう。
イエメンでは外国人の一定量のアルコール類の持込は規制が緩やかであるし、大都会のホテルのレストランに限り、ビールなら置いてある。
旅中欠かすことのなかった「シャルム」という銘柄のミネラルウォーターで薄め、ジンをチビチビ飲んでいると、突然雷雨がこだました。
そして、すぐに大雨になった。バケツを逆さにしたような雨だ。
 雨が上がり、こじんまりとしたスークを訪れた。
バヴゥ・アル・カビブ(カビル門)をくぐり、すぐの路地の一角で、深くえぐられた谷に水が氾濫していた。小さなワディ(涸れ谷)が川となり、水がスークにも溢れ出している。
泥川には老若男女が群がり、その流れを珍しそうに見物していた。
架設された渡し木でなんとかスークへと渡る。
軒先や路面のあちこちが水浸しになり、店のひとたちが忙しそうに働いていた。
晴れ上がった空を浮かぶ雲は茜色に変化し、すべてを洗い流すように、厳かなアッザーンがミナレットのスピーカーからスークに届いてきた―――。





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